養老元年 泰澄大師御開創 霊峰白山遥拝の地

北陸三十三観音霊場 第九番札所

朝日観音 福通寺

御詠歌

よしあしをわかさずてらすあさひざん

びょうどうだいえのじひのひかりを

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参詣案内

福井県越前町朝日7−61

0778-34-0621

通常拝観・御朱印受付時間

9:00〜17:00

法要や急用により対応できないことがあります。

御用ある場合は事前にご連絡下さい。

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秘仏本尊御開扉の縁日

  • 1月1日 元日
  • 4月18日 春季縁日
  • 8月10日 千日参り

いずれの日も早朝から夕方まで秘仏本尊​正観音像を御開扉し、あわせて観音護摩​供を修します

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朝日観音縁起

 当山は奈良時代の養老元年(717)、泰澄大師により開​かれたとされるお寺です。

 言い伝えによれば、泰澄大師がこのあたりを巡錫されて​いたところ、山に妖しい雲がただよい、ただならぬ気配が​村をつつんでいるのに気がつかれました。村人にその理由​を聞けば、この山に魔神が棲み、多くの人を苦しめている​とのこと。村人は大師に魔神のたたりを鎮めてくれるように​哀願しました。大師はその願いを聞きいれ、魔障うずまく​山中に籠り、観音菩薩に祈りを捧げました。一心に祈る事​21日間、ついに悪魔は失せました。魔神が棲んでいた山​中には大きなクスノキの大木が立ち、それが光を放ったの​で、大師はこれこそ霊木であると歓喜し、一刀三礼しなが​らこの霊木から仏像を刻み、無病息災のために正観音像​を、災難厄除のために千手観音像を、そして五穀豊穣・万​民快楽のため稲荷・八幡の両鎮守神を祀られたのでした。

 そして観音さまの開眼供養の際、お像の額の白毫から​朝日のように光が放たれたので、「朝日観音」と呼ぶよう​になったということです。以来この観音さまは「朝日のお​観音さん」として人々に親しまれ、篤く信仰され続けてい​ます。

紙芝居「朝日のかんのんさま」より

①泰澄大師は魔障が消え去るよう、観音菩薩​に祈りを捧げた

②光を放つ霊木から仏像を彫る泰澄大師

③末永い安寧を祈り、正観音像、千手観音​像、鎮守神を祀った

④開眼供養の時、白毫から朝日のように光が​放たれたので「朝日観音」と呼ばれるように​なった

正観音菩薩立像(本堂・秘仏)

福井県指定文化財 鎌倉時代 寄木造り(カヤ材) 像高196cm

 泰澄大師御作と伝わる正観音さま。​その優しいお姿で、人々をあらゆる苦し​みから救って下さいます。魔神を調伏し​た「魔除け観音」として古来篤く信仰さ​れてきました。

 美術史的な観点からは鎌倉時代の彫​刻と考えられています。像容は、高い髻​を結い、卵型の顔に生き生きとした慈悲​相を表します。印相は左手に未敷蓮華​を持ち、右手でその蓮華を開こうとされ​ています。菩薩でありながら袈裟をつけ​るお姿には、中国宋時代の仏画の影響​が見られますが、この時期の同様の等​身菩薩像は鎌倉周辺などには見られる​ものの、当地方では他に類を見ませ​ん。中央に依拠する相当な技量を持っ​た仏師によって制作されたものと考えら​れます。

千手観音菩薩立像(千手堂・拝観可)

福井県指定文化財 平安時代 一木造り(ケヤキ材) 像高180cm

 泰澄大師が災難厄除のため、​正観音菩薩と同木より作られたと​伝わる千手観音さま。そのありが​たいお姿に感動し涙する参詣者​の方もおられます。

 お姿を拝しますと、まず頭上に​十一面をいただかれています。​手は合掌手の2臂、脇手は40​臂。彫法はやや生硬な感じなが​らも、唇を硬く閉ざし衆生を見据​えるような面相は厳粛。衣文表​現などからは平安末期から鎌倉​初期頃の作と考えられますが、​その厳しく張りのあるお顔は平安​前期的であり、あるいは前代の​霊像を模刻したものかもしれませ​ん。

不動明王立像(本堂・拝観可)

越前町指定文化財 室町時代

寄木造り(ヒノキ材) 像高95cm

 観音さまとともに多くの善男善女​の信仰を集める不動明王さま。

右手に智慧の剣を、左手に羂索を​持ち、その恐ろしいお姿で魔障を破​り人々を正しい道へと導いて下さい​ます。

 北陸三十六不動霊場の第三十一​番札所として御朱印をお求めいただ​けます。

弘法大師坐像(本堂・拝観可)

越前町指定文化財室町時代 文明3年(1471)

寄木造り(ヒノキ材) 像高27.2cm

 真言宗の開祖、弘法大師の​お像。令和2年5月の調査によ​り像内から墨書銘が見つかり院​派仏師の院増とその子息2人​が文明3年(1471)に造立寄​進したものとわかりました。

 また当山の古名である「郡​榮山 朝日寺」も像内に明記さ​れており歴史資料としても大変​貴重な発見となりました。

大日如来坐像(内郡日吉神社安置)

福井県指定文化財 平安時代

割矧造り(ヒノキ材) 像高160cm

 その昔、福通寺の本尊だったと伝​わる大日如来像が内郡区の日吉神社​拝殿に祀られています。戦国時代の​戦禍の際、この神社に尊像を隠して​難を免れたとされています。それ以来​大日如来像はこの神社に安置されて​今に至りますが、17年に一度の朝​日観音御開扉法要の際には、内郡区​の青年団によって輿に担がれ、当山​に「お里帰り」されます。仏像が地区​ぐるみの行事で御遷座されるのは全​国でも他に例を見ない非常に珍しいこ​とです。

 智拳印を結ばれる金剛界大日如来​で、素朴な中に森厳な趣がただよいま​す。また日吉神社拝殿には、平安時​代の作である十一面観世音菩薩、地​蔵菩薩、四天王のうちの二天の各像​も安置されています。

幸若家寄進の梵鐘(鐘つき堂)

越前町指定文化財 江戸時代 宮崎彦九郎義一(初代寒雉)作

 この梵鐘は、当町の西田中​に屋敷を構えた幸若舞の宗​家、幸若八郎九郎家の第11​代直良が、所願成就報恩謝徳​のため、元禄5年(1692)に​寄進したものです。製作年は貞​享3年(1686)で、金沢の鋳​物師で加賀藩御用釜師であっ​た宮崎彦九郎義一(初代寒​雉)とその子彦三郎義治による​作と銘があります。その音声は​玲瓏透徹国内無双といわれ、​太平洋戦争時の供出回収を免​れて今日に至っています。

 本来梵鐘は、仏事や時報、​火災報知等以外は撞くものでは​ありませんが、この梵鐘はいつ​でも所願成就を祈って撞くこと​ができます。

泰澄大師とはどんな人?

 当山をお開きになった泰澄大師は、白鳳11年(682)越前国麻生津​(福井市三十八社町)に誕生されました。生まれながらにして仏法に​縁深かった泰澄大師は、観音菩薩の霊夢に導かれて越知山に入り、​厳しい修行の末に大いなる霊験を示され、「越の大徳」と呼ばれるよ​うになります。大師は諸国を巡錫し、養老元年(717)には日本三霊​山の一つである白山をお開きになりました。またお寺や神社を建て、橋​を架け、道をつくり、産業を興し、温泉を見出すなど万民のためにあら​ゆる方面で活躍されたと伝えられます。 養老6年(722)には勅命に​よって奈良の都に上り、元正天皇に加持祈祷を行ってご病気を治癒​し、その功績により禅師(「神融禅師」と号す)の位を授けられまし​た。さらに天平9年(736)には疱瘡の流行を十一面法を修して終息さ​せ、大和尚(「泰澄大和尚」と号す)の位を授けられました。越前を​はじめ全国にその足跡を残された大師は、神護景雲元年(767)、越​知山大谷の仙窟で入定されました。泰澄大師の生涯については、『泰​澄和尚伝記(たいちょうかしょうでんき)』などに記録されるほか、全​国各地で寺社縁起・霊験譚として語り継がれています。その数は行基さ​んやお大師さんなどの著名な僧に匹敵するほどで、泰澄大師が如何に​多くの人から信仰されていたかを物語るものといえます。哲学者梅原猛​氏は泰澄大師を「神仏習合思想の先駆者」として高く評価していまし​た。

朝日観音から白山遥拝

朝日観音の歴史

 奈良時代に開かれたとされる朝日観音ですが、古文書等は焼失・散逸してしまったよう​で、その歴史を物語れる史料は多くありません。数少ない中世以前の記録として、京都​の教王護国寺に伝わった東寺百合文書のに「越前国 丹生北郡 織田庄内郡 朝日寺」と​記される古文書があり、中世以前は「朝日寺(あさひじ)」と号していたようです。

 また正観音像と千手観音像は、泰澄大師御作との伝えはありますが、今に現れるお姿​は平安時代末期から鎌倉時代の作と見られます。おそらく当初より祀られていた観音像​が、災害など何らかの事情で失われたために、新たに造立された再興像なのでしょう。​その荘厳なお姿からは往時の朝日寺が堂塔立ち並ぶ大寺院であったことを想像できま​す。特に正観音像は、地方には稀な都ぶりのする宋風の等身観音像であり、これほどの​仏像を作らせることのできた有力な檀越が誰であったのか、大変興味深いところです。

 このように中世には寺門興隆していたであろう朝日寺ですが、戦国時代、天正元年​(1573)の織田信長の越前朝倉氏侵攻に端を発する戦火(朝倉氏の盛衰を物語る『朝倉​始末記』には、天正2年に一向一揆が焼き打ちをした寺として「朝日の観音」が挙げら​れている)により伽藍は焼亡し、著しい衰退の時を迎えます。この時期、越前の多くの​密教寺院は同じように一向一揆により焼打ちされ退転していきました。しかし、当山には​最も大切な観音像が残ったため、江戸時代以降は朝日村と内郡村の村堂として護持さ​れるようになり、寺務を司る別当福通寺とともに、その信仰が守り継がれていきました。ま​た江戸時代中期には越前国三十三観音霊場第三十番札所となり、広く信仰を集めるよう​になりました。近代以降、徐々に伽藍の整備が進み、昭和57年には宝形造の観音堂(本​堂)と二重塔の千手堂が再建されました。今では地元の人々はもちろんのこと、北陸三​十三観音霊場第九番札所として遠方からも参詣者が絶えず、観音さまの慈悲の光はま​すます広がるばかりです。

「越前国丹生北郡織田庄内郡朝日寺東寺御修造奉加人数事」​(文安2年8月9日・1445年)(京都府立総合資料館 東寺百合文​書WEB より引用・トリミング改変