養老元年 泰澄大師御開創 霊峰白山遥拝の地
北陸三十三観音霊場 第九番札所
朝日観音 福通寺
御詠歌
よしあしをわかさずてらすあさひざん
びょうどうだいえのじひのひかりを
参詣案内
福井県越前町朝日7−61
通常拝観・御朱印受付時間
9:00〜17:00
法要や急用により対応できないことがあります。
御用ある場合は事前にご連絡下さい。
秘仏本尊御開扉の縁日
いずれの日も早朝から夕方まで秘仏本尊正観音像を御開扉し、あわせて観音護摩供を修します
朝日観音縁起
当山は奈良時代の養老元年(717)、泰澄大師により開かれたとされるお寺です。
言い伝えによれば、泰澄大師がこのあたりを巡錫されていたところ、山に妖しい雲がただよい、ただならぬ気配が村をつつんでいるのに気がつかれました。村人にその理由を聞けば、この山に魔神が棲み、多くの人を苦しめているとのこと。村人は大師に魔神のたたりを鎮めてくれるように哀願しました。大師はその願いを聞きいれ、魔障うずまく山中に籠り、観音菩薩に祈りを捧げました。一心に祈る事21日間、ついに悪魔は失せました。魔神が棲んでいた山中には大きなクスノキの大木が立ち、それが光を放ったので、大師はこれこそ霊木であると歓喜し、一刀三礼しながらこの霊木から仏像を刻み、無病息災のために正観音像を、災難厄除のために千手観音像を、そして五穀豊穣・万民快楽のため稲荷・八幡の両鎮守神を祀られたのでした。
そして観音さまの開眼供養の際、お像の額の白毫から朝日のように光が放たれたので、「朝日観音」と呼ぶようになったということです。以来この観音さまは「朝日のお観音さん」として人々に親しまれ、篤く信仰され続けています。
紙芝居「朝日のかんのんさま」より
①泰澄大師は魔障が消え去るよう、観音菩薩に祈りを捧げた
②光を放つ霊木から仏像を彫る泰澄大師
③末永い安寧を祈り、正観音像、千手観音像、鎮守神を祀った
④開眼供養の時、白毫から朝日のように光が放たれたので「朝日観音」と呼ばれるようになった
正観音菩薩立像(本堂・秘仏)
福井県指定文化財 鎌倉時代 寄木造り(カヤ材) 像高196cm
泰澄大師御作と伝わる正観音さま。その優しいお姿で、人々をあらゆる苦しみから救って下さいます。魔神を調伏した「魔除け観音」として古来篤く信仰されてきました。
美術史的な観点からは鎌倉時代の彫刻と考えられています。像容は、高い髻を結い、卵型の顔に生き生きとした慈悲相を表します。印相は左手に未敷蓮華を持ち、右手でその蓮華を開こうとされています。菩薩でありながら袈裟をつけるお姿には、中国宋時代の仏画の影響が見られますが、この時期の同様の等身菩薩像は鎌倉周辺などには見られるものの、当地方では他に類を見ません。中央に依拠する相当な技量を持った仏師によって制作されたものと考えられます。
千手観音菩薩立像(千手堂・拝観可)
福井県指定文化財 平安時代 一木造り(ケヤキ材) 像高180cm
泰澄大師が災難厄除のため、正観音菩薩と同木より作られたと伝わる千手観音さま。そのありがたいお姿に感動し涙する参詣者の方もおられます。
お姿を拝しますと、まず頭上に十一面をいただかれています。手は合掌手の2臂、脇手は40臂。彫法はやや生硬な感じながらも、唇を硬く閉ざし衆生を見据えるような面相は厳粛。衣文表現などからは平安末期から鎌倉初期頃の作と考えられますが、その厳しく張りのあるお顔は平安前期的であり、あるいは前代の霊像を模刻したものかもしれません。
不動明王立像(本堂・拝観可)
越前町指定文化財 室町時代
寄木造り(ヒノキ材) 像高95cm
観音さまとともに多くの善男善女の信仰を集める不動明王さま。
右手に智慧の剣を、左手に羂索を持ち、その恐ろしいお姿で魔障を破り人々を正しい道へと導いて下さいます。
北陸三十六不動霊場の第三十一番札所として御朱印をお求めいただけます。
弘法大師坐像(本堂・拝観可)
越前町指定文化財室町時代 文明3年(1471)
寄木造り(ヒノキ材) 像高27.2cm
真言宗の開祖、弘法大師のお像。令和2年5月の調査により像内から墨書銘が見つかり院派仏師の院増とその子息2人が文明3年(1471)に造立寄進したものとわかりました。
また当山の古名である「郡榮山 朝日寺」も像内に明記されており歴史資料としても大変貴重な発見となりました。
大日如来坐像(内郡日吉神社安置)
福井県指定文化財 平安時代
割矧造り(ヒノキ材) 像高160cm
その昔、福通寺の本尊だったと伝わる大日如来像が内郡区の日吉神社拝殿に祀られています。戦国時代の戦禍の際、この神社に尊像を隠して難を免れたとされています。それ以来大日如来像はこの神社に安置されて今に至りますが、17年に一度の朝日観音御開扉法要の際には、内郡区の青年団によって輿に担がれ、当山に「お里帰り」されます。仏像が地区ぐるみの行事で御遷座されるのは全国でも他に例を見ない非常に珍しいことです。
智拳印を結ばれる金剛界大日如来で、素朴な中に森厳な趣がただよいます。また日吉神社拝殿には、平安時代の作である十一面観世音菩薩、地蔵菩薩、四天王のうちの二天の各像も安置されています。
幸若家寄進の梵鐘(鐘つき堂)
越前町指定文化財 江戸時代 宮崎彦九郎義一(初代寒雉)作
この梵鐘は、当町の西田中に屋敷を構えた幸若舞の宗家、幸若八郎九郎家の第11代直良が、所願成就報恩謝徳のため、元禄5年(1692)に寄進したものです。製作年は貞享3年(1686)で、金沢の鋳物師で加賀藩御用釜師であった宮崎彦九郎義一(初代寒雉)とその子彦三郎義治による作と銘があります。その音声は玲瓏透徹国内無双といわれ、太平洋戦争時の供出回収を免れて今日に至っています。
本来梵鐘は、仏事や時報、火災報知等以外は撞くものではありませんが、この梵鐘はいつでも所願成就を祈って撞くことができます。
泰澄大師とはどんな人?
当山をお開きになった泰澄大師は、白鳳11年(682)越前国麻生津(福井市三十八社町)に誕生されました。生まれながらにして仏法に縁深かった泰澄大師は、観音菩薩の霊夢に導かれて越知山に入り、厳しい修行の末に大いなる霊験を示され、「越の大徳」と呼ばれるようになります。大師は諸国を巡錫し、養老元年(717)には日本三霊山の一つである白山をお開きになりました。またお寺や神社を建て、橋を架け、道をつくり、産業を興し、温泉を見出すなど万民のためにあらゆる方面で活躍されたと伝えられます。 養老6年(722)には勅命によって奈良の都に上り、元正天皇に加持祈祷を行ってご病気を治癒し、その功績により禅師(「神融禅師」と号す)の位を授けられました。さらに天平9年(736)には疱瘡の流行を十一面法を修して終息させ、大和尚(「泰澄大和尚」と号す)の位を授けられました。越前をはじめ全国にその足跡を残された大師は、神護景雲元年(767)、越知山大谷の仙窟で入定されました。泰澄大師の生涯については、『泰澄和尚伝記(たいちょうかしょうでんき)』などに記録されるほか、全国各地で寺社縁起・霊験譚として語り継がれています。その数は行基さんやお大師さんなどの著名な僧に匹敵するほどで、泰澄大師が如何に多くの人から信仰されていたかを物語るものといえます。哲学者梅原猛氏は泰澄大師を「神仏習合思想の先駆者」として高く評価していました。
朝日観音から白山遥拝
朝日観音の歴史
奈良時代に開かれたとされる朝日観音ですが、古文書等は焼失・散逸してしまったようで、その歴史を物語れる史料は多くありません。数少ない中世以前の記録として、京都の教王護国寺に伝わった東寺百合文書のに「越前国 丹生北郡 織田庄内郡 朝日寺」と記される古文書があり、中世以前は「朝日寺(あさひじ)」と号していたようです。
また正観音像と千手観音像は、泰澄大師御作との伝えはありますが、今に現れるお姿は平安時代末期から鎌倉時代の作と見られます。おそらく当初より祀られていた観音像が、災害など何らかの事情で失われたために、新たに造立された再興像なのでしょう。その荘厳なお姿からは往時の朝日寺が堂塔立ち並ぶ大寺院であったことを想像できます。特に正観音像は、地方には稀な都ぶりのする宋風の等身観音像であり、これほどの仏像を作らせることのできた有力な檀越が誰であったのか、大変興味深いところです。
このように中世には寺門興隆していたであろう朝日寺ですが、戦国時代、天正元年(1573)の織田信長の越前朝倉氏侵攻に端を発する戦火(朝倉氏の盛衰を物語る『朝倉始末記』には、天正2年に一向一揆が焼き打ちをした寺として「朝日の観音」が挙げられている)により伽藍は焼亡し、著しい衰退の時を迎えます。この時期、越前の多くの密教寺院は同じように一向一揆により焼打ちされ退転していきました。しかし、当山には最も大切な観音像が残ったため、江戸時代以降は朝日村と内郡村の村堂として護持されるようになり、寺務を司る別当福通寺とともに、その信仰が守り継がれていきました。また江戸時代中期には越前国三十三観音霊場第三十番札所となり、広く信仰を集めるようになりました。近代以降、徐々に伽藍の整備が進み、昭和57年には宝形造の観音堂(本堂)と二重塔の千手堂が再建されました。今では地元の人々はもちろんのこと、北陸三十三観音霊場第九番札所として遠方からも参詣者が絶えず、観音さまの慈悲の光はますます広がるばかりです。
「越前国丹生北郡織田庄内郡朝日寺東寺御修造奉加人数事」(文安2年8月9日・1445年)(京都府立総合資料館 東寺百合文書WEB より引用・トリミング改変