朝日観音略縁起
抑モ当山ニ安置シ奉ル正観世音菩薩ノ濫觴ヲ尋ネ奉ルニ、人皇四十四代元正天皇ノ御宇、養老元年、越知ノ大徳泰澄大師ノ御作ナリ。其ノ昔、此ノ処ニ悪魔住居シ人民ヲ悩マス事幾万人ナルヲ知ラズ。大師御修行ノ砌、偶々此ノ辺リヲ通リ給フニ、遥カ西ニ辺リ、妖雲山ヲ覆ヘリ。至リ見給フニ森林タル山腹ニ樟ノ大木アリ、其ノ側ニ一ノ洞窟アリテ魔神ノ住居スルヲ見玉ウ。大師爰ニ於テ此ノ魔行ヲ破リ、永ク其ノ跡ヲ断タント祈誓セラレ、三七日ノ間、正観音ノ秘法ヲ修シ給フニ、不思議ナル哉、此ノ樟ノ大木、光ヲ放テリ。大師歓喜シ、悪魔降伏ノ為ニ此ノ木ヲ加持シ、一刀三礼シテ御丈六尺ノ正観世音菩薩ノ尊像ヲ彫刻シ、一宇ヲ創建シテ茲ニ安置シ奉ル。開眼ノ御時、嗚呼奇瑞ナル哉、白毫ヨリ光明赫々トシテ四方ニ輝キタル事、朝日ノ如クナレバ、此ノ尊像ヲ朝日観音ト称ス。
茲ニ千三百余年ノ間、法燈千載ノ光明続キテ、本尊薩埵倍増法楽、泰澄大師報恩謝徳ノ御祈念、今ニ怠ル事無シ。 夫レ観音菩薩ハ法身無相ノ大菩薩ニ在シテ、廣大慈悲ノ眼ヲ以テ、一切衆生ヲ見ソナワシ給ヒ、千萬無量ニ身ヲ分チ、廣ク智ノ方便ヲ以テ十方諸々ノ国土、刹トシテ身ヲ現ゼズト云フ事無シ。一度菩薩ヲ念ズル者ハ、家内安全、諸病平癒、息災延命、五穀成就ヲ得ルコト疑ヒ無シ。斯カル貴キ大悲深重ノ御尊躰ナレバ、各々信心ノ輩ハ、現世ハ安穏、後生ハ極楽ノ勝縁ヲ随喜渇仰シ、謹ンデ拝礼アルベキモノ也。
朝日観音のはじまり
当山は奈良時代の養老元年(717)、泰澄大師により開かれたお寺です。
言い伝えによれば、泰澄大師がこのあたりを巡錫していたところ、山に妖しい雲がただよい、ただならぬ気配が村をつつんでいるのに気がつかれました。村人にその理由を聞けば、この山に魔神が棲み、多くの人を苦しめているとのこと。人々は泰澄大師に魔神のたたりを鎮めてくれるように哀願しました。泰澄大師はその願いを聞きいれ、魔障うずまく山中に籠り、観音菩薩に祈りを捧げました。一心不乱に祈る事二十一日間、ついに悪魔は失せました。魔神が棲んでいた山中には大きなクスノキの大木が立ち、それが光を放ったので、泰澄大師はこれこそ霊木であると歓喜し、一刀三礼しながらこの霊木から仏像を刻み、無病息災のために正観世音菩薩像を、災難厄除のために千手観世音菩薩像を、そして五穀豊穣・万民快楽のために稲荷・八幡の両鎮守神像を作られたのでした。
そしてこの観音像の開眼供養の際、観音像の額の白毫から朝日のように光が射したので、この観音さまを「朝日観音」と呼ぶようになったということです。以来この観音さまは「朝日のお観音さん」として人々に親しまれ、篤く信仰され続けています。
泰澄大師はどんな人?
当山をお開きになった泰澄大師は、白鳳11年(682)越前国麻生津(福井市三十八社町)に誕生されました。生まれながらにして仏法に縁深かった泰澄大師は、観音菩薩の霊夢に導かれて越知山に入り、厳しい修行の末に大いなる霊験を示され、「越の大徳」と呼ばれるようになります。大師は諸国を巡錫し、養老元年(717)には日本三霊山の一つである白山をお開きになりました。またお寺や神社を建て、橋を架け、道をつくり、産業を興し、温泉を見出すなど万民のためにあらゆる方面で活躍されたと伝えられます。
養老6年(722)には勅命によって奈良の都に上り、元正天皇に加持祈祷を行ってご病気を治癒し、その功績により禅師(「神融禅師」と号す)の位を授けられました。さらに天平9年(736)には疱瘡の流行を十一面法を修して終息させ、大和尚(「泰澄大和尚」と号す)の位を授けられました。越前をはじめ全国にその足跡を残された大師は、神護景雲元年(767)、越知山大谷の仙窟で入定されました。
これら泰澄大師の生涯については、神奈川県横浜市の称名寺に最古の写本がのこる『泰澄和尚伝記(たいちょうかしょうでんき)』などに記録されるほか、全国各地で寺社縁起・霊験譚として語り継がれています。その数は行基菩薩や弘法大師などの著名な高僧にも匹敵するほどで、泰澄大師が如何に多くの人から信仰されていたかを物語るものといえます。哲学者梅原猛氏は、泰澄大師を「神仏習合思想の先駆者」として高く評価していました。
朝日観音の歴史
奈良時代に開かれたとされる朝日観音ですが、古文書等は焼失・散逸してしまったようで、その歴史を物語れる史料は多くありません。数少ない中世以前の記録として、京都の教王護国寺に伝わった『東寺百合文書』の中に、「越前国 丹生北郡 織田庄内郡 朝日寺」(文安2年〔1445〕、下画像参照)と記される古文書があり、中世以前は「朝日寺」(あさひじ)と号していたようです。
また本尊正観音像と千手観音像は、泰澄大師御自作との伝えはありますが、今に現れるお姿は平安時代末期から鎌倉時代の作と見られます。おそらく当初より祀られていた観音像が、災害など何らかの事情で失われたために、新たに造立された再興像なのでしょう。その荘厳なお姿からは往時の朝日寺が堂塔立ち並ぶ大寺院であったことを想像できます。特に正観音像は、地方には稀な都ぶりのする宋風の等身観音像であり、これほどの仏像を作らせることのできた有力な檀越が誰であったのか、大変興味深いところです。
このように中世には寺門興隆していたであろう朝日寺ですが、戦国時代末期、天正元年(1573)の織田信長の越前朝倉氏侵攻に端を発する動乱により、一向一揆の焼き打ちに遭い(朝倉氏の盛衰を物語る『朝倉始末記』には、天正2年に一向一揆が焼き打ちをした寺として「朝日の観音」が挙げられている)、伽藍は焼亡、寺宝は散逸し、著しい衰退の時を迎えます。この時期、越前の多くの密教寺院は同じように一向一揆により焼打ちされ退転していきました。
しかし、当山には最も大切な観音像が残ったため、江戸時代以降は地元朝日村と内郡村の村堂である「観音堂」として護持されるようになり、寺務を司る別当福通寺とともに、その信仰が守り継がれていきました。また江戸時代中期には越前国三十三観音霊場第三〇番札所に定められ、広く信仰を集めるようになりました。
近代以降、徐々に伽藍の整備が進み、昭和57年には宝形造の観音堂(本堂)、二重塔の千手堂が再建されました。今では地元の人々はもちろんのこと、北陸三十三観音霊場第九番札所として遠方からも参詣者が絶えず、観音さまの慈悲の光はますます広がるばかりです。